harunoame

きんきと映画とアニメと本の話

彼女はきっとこれからも、誰にも邂わない

リズと青い鳥を観た週の後半に、もう1本観た映画。
これは、いたたまれなさに死んでしまうかと思った。
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 いじめられているミユリに転校生のつむぎが手を差し伸べて、ミユリに友人ができる。ミユリはつむぎを「神様観たいな人」と言うけど、つむぎは神様でもなんでもなく、藁にも縋る思いで、じぶんを助けるようにミユリを助けただけの子でした。

 この映画のタイトルは「少女邂逅」だけれども、少女は誰かに邂逅したのでしょうか。ミユリもつむぎもお互いの核心に触れることなく表面を撫であうだけで、誰も、誰にも邂逅しなかった。どうにかできそうな切欠はあちこちに散らばっていたのに、誰もどうにもならんかった。そういう話だったと思う。

 ミユリはさいごまで向き合うことなく逃げ続けたし、つむぎは思わせぶりに振り回すばかりであきらめてしまったし。

 本当はうすうす気がついていたのに、現状を壊してしまうことをおそれて、何もしなかった。人を知ろうとしなかった。そういう罪悪感が刺激されました。私もミユリのように、そういう酷いことを沢山してきたと思う。臆病というとアレだけれど、あの人は、あのとき私に何かを期待してくれていたのだな…応えて欲しいと思ってくれてたんだなあ…、と後になって思うことが多々あります。本当はそのときにも解っていたのに、その人の思いを聴こうとしたり、受け止めようとしたりしなかった。
 じぶんではない人を大切にすることは、なんて難しいのだろうと思います。

 この映画、何を描きたかったんでしょう。繭から出ようとする蚕の暗喩は、狭い町を出て大人になるミユリと、大人にならないと決めたつむぎの対比を思わせるのかもしれないけれど、大人になるってそういうことかしら…(違うと思う)この映画、そういう話なのかしら。
 私のなかの強烈な後悔と罪悪感を呼びさます、強烈ないたたまれなさを含んだ映画だったことは、間違いないのだけど。個人的な要素が強すぎて、冷静に観られていないのかもしれません。
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 映像は仄かに青白くて、少女が可愛くて、綺麗でした。そこはとても愉しかったです。
 つむぎに髪を結って貰ったミユリはとてもとても、ほんとうにとても可愛かったし、ふたりっきりで向き合っているつむぎも美しかった。雀斑が美しさを補強していて、ミユリもつむぎも、ふたりで向かい合ってクリームソーダを飲んでるときが、いちばんしあわせだったのではないかと思う。邂逅していないままのふたりだったけれど。