harunoame

きんきと映画とアニメと本の話

思想が観たかったのか、可愛いおんなのこが観たかったのか

きっと私は可愛いおんなのこが観たかった。おおよそ可愛かった。

カランコエの花は40分ほどの短い映像作品で、倫理・道徳の授業で見せる映像としては不必要なほどに綺麗な、映画としては微妙にご都合主義てきな…という印象でした。f:id:harunoame_11:20181203134853j:image
 うーん、変な話、今時あんなふうに「うちのクラスにそんなきしょくわるいやつがいるかもしんないんだぜぇ!☆」みたいな揶揄いをするような子、いるのだろうかと思ってしまう。学校の雰囲気なんて現役のころから殆どまったく読めなかったから、今の学校のことなんて尚更わからないけど。

 良くも悪くも「差別」というのに敏感で、この世に絶対悪があるとしたら「差別」。みたいな社会だと思うのです、今。今時の子はかしこくて、自分の身を顧みずあからさまに騒ぎ立てて「差別」するような雰囲気はあんまり現実的ではないように思いました。
 物語を展開させるための悪役。そういう感じ。だからこそは、そんなに好きな脚本ではない、と思います。

 うーん、うまく言えないのだけど、こういうのは、もっとこう、暗黙の了解のような部分が問題なのだと思う。

 保健室で恋バナをする桜ちゃんは本当に可愛くて、好きになることの可愛さと楽しさが溢れていました。けれど、相手をおとこの子と前提した他のおんなの子とは、なんとなく引っかかってしまって素直に恋バナができない。そういうやりづらさの表現は好きだった、です。

彼女はきっとこれからも、誰にも邂わない

リズと青い鳥を観た週の後半に、もう1本観た映画。
これは、いたたまれなさに死んでしまうかと思った。
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 いじめられているミユリに転校生のつむぎが手を差し伸べて、ミユリに友人ができる。ミユリはつむぎを「神様観たいな人」と言うけど、つむぎは神様でもなんでもなく、藁にも縋る思いで、じぶんを助けるようにミユリを助けただけの子でした。

 この映画のタイトルは「少女邂逅」だけれども、少女は誰かに邂逅したのでしょうか。ミユリもつむぎもお互いの核心に触れることなく表面を撫であうだけで、誰も、誰にも邂逅しなかった。どうにかできそうな切欠はあちこちに散らばっていたのに、誰もどうにもならんかった。そういう話だったと思う。

 ミユリはさいごまで向き合うことなく逃げ続けたし、つむぎは思わせぶりに振り回すばかりであきらめてしまったし。

 本当はうすうす気がついていたのに、現状を壊してしまうことをおそれて、何もしなかった。人を知ろうとしなかった。そういう罪悪感が刺激されました。私もミユリのように、そういう酷いことを沢山してきたと思う。臆病というとアレだけれど、あの人は、あのとき私に何かを期待してくれていたのだな…応えて欲しいと思ってくれてたんだなあ…、と後になって思うことが多々あります。本当はそのときにも解っていたのに、その人の思いを聴こうとしたり、受け止めようとしたりしなかった。
 じぶんではない人を大切にすることは、なんて難しいのだろうと思います。

 この映画、何を描きたかったんでしょう。繭から出ようとする蚕の暗喩は、狭い町を出て大人になるミユリと、大人にならないと決めたつむぎの対比を思わせるのかもしれないけれど、大人になるってそういうことかしら…(違うと思う)この映画、そういう話なのかしら。
 私のなかの強烈な後悔と罪悪感を呼びさます、強烈ないたたまれなさを含んだ映画だったことは、間違いないのだけど。個人的な要素が強すぎて、冷静に観られていないのかもしれません。
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 映像は仄かに青白くて、少女が可愛くて、綺麗でした。そこはとても愉しかったです。
 つむぎに髪を結って貰ったミユリはとてもとても、ほんとうにとても可愛かったし、ふたりっきりで向き合っているつむぎも美しかった。雀斑が美しさを補強していて、ミユリもつむぎも、ふたりで向かい合ってクリームソーダを飲んでるときが、いちばんしあわせだったのではないかと思う。邂逅していないままのふたりだったけれど。

 

 

友だちでさえない初恋の人

大好きだった京アニの『響け!ユーフォニアム』の劇場版です。
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 アニメでは、久美子と麗奈の関係が好きでした。
 強い意志だけがひとり浮き足立っていて、久美子に冷静な言葉を掛けられて初めて周りに人がいることに気が付く麗奈と、麗奈のレーザービームのような一直線の強さに影響されて熱を持ち始める久美子の関係が大好きでした。特に1期の久美子が強い感情に振り回されながら麗奈と向き合うの、とてもトキメキます。
 主人公ふたりの関係は強くて前向きで甘えを許さない、緊張感のあるカップリングでした。互いに向上し合うことしか認めていない感じ。互いの挫折も弱さも知っていて、でも自力で這い上がってくることを信じている。きりきりに縒り合わせた鋼の糸みたいな、厳しくて堅い関係。スポ根的な熱さが、おんなのこ同士のロマンチックな美しさと織り交ざって、さいこうにドラマチックでした。

 他にも可愛いおんなのこが沢山で、夏紀先輩と優子ちゃんや、あすか先輩も、みんな真面目で優しくて一生懸命で不器用で最高でした。めっちゃくちゃ可愛いのに、可愛いだけじゃなくて強いのがいい。映画もたのしみでした。

 そして、たのしかった!!

 みぞれと希美が音楽室へ向かう場面から、ずっとふたりの関係は友だちというには不自然で、その演出がとても綺麗で上手いなあああ、て思って観ていました。
 そう、演出がとても良かったです。変に凝っていて疲れるでもないちょうどいい案配で特別に美しい絵画のような表現が挿しこまれたりして、その瞬間、少女たちの美しい一瞬を強く意識させられるのがとても愉しかった。

 みぞれと希美の関係が「リズと青い鳥」という小説に重ね合わせて表現されるので、リズと青い鳥の物語部分もアニメ化されます。
 それがめっちゃくちゃ可愛いのです!!
 絵柄がすこし変わって手書きふうの風合いが強くなり、色味も柔らかく、声優さんの表現も物語を音読するような棒読みで、作風が全然違います。アニメーション映画を2本観てるみたいでした。可愛さのトーンは似通っているのでしっくり馴染んでいるのだけれど、本編も物語も、どっちも可愛くって!!ああ、動物に囲まれたリズとてもかわいいわ、リズ好きよリズ。

 物語は、みぞれが希む共依存の関係を希美が拒む、という展開で、とても良いお話しだったと思います。
 関係を始めたのは希美でした。みぞれはきっと始めて「人」に会ったくらいの衝撃で希美の存在を受け入れて、ひよこのように希美について回るけれど、そういう子を側に置いて優越感を欲しがっていたのは希美でした。
 希美は、青い鳥に自分を重ねて「青い鳥が出て行ったとしても、また帰ってくれば良いと思わない?」と呑気に言うけれど、その言葉が、最後には自分に返ってくるという構図がとても良いと思いました。
 帰ってくれば良い、と言っても帰ってきてくれるかはどうか解らない。それはずっとみぞれが向き合ってきた不安で、希美が見ない振りをしていた不安でした。
 だから、みぞれの手を離して、ふたりの関係は取りあえず保留。新しい関係性を探せるかもしれないし、卒業したら会わないかもしれない。という提案を希美から起こしたことが、とても前向きで誠実で、良いふたりだなあと思いました。
 みぞれが今後、希美が離してくれた手で他の沢山のものを持ってみて、その上でまた希美の手を握ることがあればうれしいなあ。あとはみぞれ次第。
 響け!ユーフォニアムらしい、強さと健全さがある終わりだったと思います。あとりりこちゃん可愛いのりりこちゃん!ほんと良い子で!
 
 あんまり可愛くて愉しかったので、Blu-ray買ってしまった。可愛いわリズ、可愛いわ。
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 みぞれの、じぶん独りしかいない星で初めて他の人に会ったくらいの衝撃で希美に接するあの感じ、痛々しいけれど覚えがあって、見ていてちょっと、うわぁ…てなりました。初めて、ほんとうに初めてあの人が欲しいと思った記憶は、美しくはないけれど、初恋なのだと思うのです。 

 

恋するおんなのこ

11月は思春期のおんなのこ同士の関係性を扱った映画を3本観ました。

・リズと青い鳥 

liz-bluebird.com
・少女邂逅

kaikogirl.com
・カランコエの花

kalanchoe-no-hana.com

 最後のカランコエの花はLGBTへの理解を促進する目的をもった思想性の高いものなので、他の2作品とは趣きが異なるのですけど、何が違うのかを詰めて考えると「恋」とは何かという話になってしまうように思います。

 感覚的に、百合は関係性の「できごと」であって、レズビアンという言い方は個人の性質を指す単語という感じがするのですが、そうすると、これは映像の作り手がどちらを意識して撮っているかの問題なのじゃないかと思います。
 私はどちらも同じもののように扱いたいと思う。性や嗜好だってそのとき、そう思っている、そう思い続けているという「できごと」だと思うから。わかんないけど。

 このごろ「恋」について考えます。
 私は、ふたりの関係性をふたりの世界で育んでいくような関係、排他的で、相手への思いやりとわがままと同意と妥協で以て影響しあってふたりともが変化していく関係が好きです。そこに「萌え」る。やおいにも百合にも商業誌BLにも、ずっとそういう内容を期待して読んでいたし、書きたいと思う。
 そして、長い時間を掛けて互いに離れがたく思うようになるのが「愛」だと思っています。殆ど「執着」みたいな愛。めっちゃ好き。

 けれど、じゃあその相手とどうして出逢うのか、愛する相手を決める意思は何処からくるのか考えてみると、そこに「恋」があるような気がする。この人だと選ぶ瞬間に理屈はないのかもしれないと、ふと思った。
 互いしか居ないような環境なら、恋がないまま愛になることもあるかも知れないけれど、それでも、彼が唯一無二の存在である、という意思を選択をする瞬間は必ず在って、そこにある感情に名前をつけるなら、きっと「恋」のような気がします。

 カランコエは社会に一般的ないわゆる「恋」を知っているおんなのこ子が、おんなのこに「普通の」恋をしているのだけど、リズも少女邂逅も、相手に抱いた感情に名前はないけれど、きっと恋だったのだと思う。

西洋の民族衣装(松濤美術館 アンティークレース展)

もう随分と前のことになってしまうのですけれど、アップリンク渋谷に「ガザの美容室」を観にいった日に、松濤美術館に寄ってみました。

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高貴な方々の愛用したレースのヴェールやドレス、ボウタイが、それはそれは緻密で繊細で、とても素敵だった…。つややかな漆黒のヴェールがあって、白い肌に淡い髪色の乙女がかけたなら、それはもううっとりするほど美しかったに違いないと思いました。

私はアンティーク・レースといって王侯貴族の豪奢な装飾という印象がつよくて、まあその通りなのですけれど、今回見た展示では、レースとキリスト教の関連をとても大切に扱っていました。勉強になったと同時に、レースへの印象がすこし変わりました。

レースの制作は修道院のシスターによるもので、真っ白なレースを美しく編むことは神の国へ逝く修行のような、祈りのような側面があったそうです。それが高値で取引されていたということなのだそう。

その後、レースは一般家庭の手仕事として広まり、生まれてくる子のおくるみを、子を慈しむようにひと鍵ずつ編んでいく習慣があったとの記述もありました。

祈りを込めて装いを整える。華やかな貴族の装飾という一面だけではなくて、信仰や生活に根付いた、民族衣装に近い性質をもったものだということを、強く感じました。

世界中で近代化を推し進めた西洋のことは、なんとなくあの文化が「スタンダード」みたいに思ってしまって忘れてしまいがちなのだけど、西洋の民族性、西洋の民族衣装のようなものが在るというあたりまえのようなことを感じた展示でした。

時間が許せば、もうすこしゆっくりみたかった。

すべてを見たるひと

読み終えました。

英雄ギルガメシュと彼のために造られたエンキドゥ(という設定が既にたまらなく素敵)が大変イチャイチャしているらしいと、邪なたのしみを以て臨んだのですが、いちゃいちゃは大部分が散逸していてるようでした。もうすこし二人の会話が残っていれば読みたいのになあ。

ギルガメシュとエンキドゥが闘って、エンキドゥがギルガメシュに「お前の母はお前を第一の者として生んだのだ」と述べる場面はときめきました。野の人が王を諫める、美しい場面ように思えました。それから、矢島訳の本文にはなかったけれど、スルタンテペ書板 にはエンキドゥの死に際してギルガメシュが嘆き「お前のために泣け(lib-ki-ka=lu ibki-ka)」というフレーズが繰り返される、という解説がこころに染みました。

エンキドゥはそんなふうに大切にして、旅や冒険を共有するギルガメシュが、女神イシュタルの求婚をこっぴどい感じで撥ね付ける辺りもなんかこう、胸に訴えるものがありました。

他に、岩波書店の月本昭男訳があって、そちらは現存の書板すべてを訳したものだそう。まだ見ぬギルガメシュとエンキドゥを求めて読もうと思います。

ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)

ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)

ものすごく不埒な感想を書いた。

チューニングが下手過ぎる

ある大学の情報学メディア研究科の説明会に参加して概要を聴いてきたのですけれど、ある先生が私に「土曜日が仕事では取れない単位があるね」と心配してくださったので、私は「派遣なので!もうすぐ3年満期でクビになりますので!次は土日休み探します!」とざっくばらんに答えたら、なんかどん引きしていらしたように思えて、反省している。やだわ。...オープンハートし過ぎたわ。

これを帰りの電車でずっと反省していて気が付いたのは「3年満期でクビになる」という言い草に、現行制度への不満が滲んでしまったので先生も困惑されたのではないかしらという推測。これはほとんどやつあたりのようだった。かも。

私は、大学院にいたころ山月記の李徴のように心を閉ざしてしまったことを今でも悔いていて、今回は、こんどこそ...という気持ちがありました。(言い訳)

学校で専門知識を学ぶということは、積極的に指導教員の意見を求めるということだと思いました。そのためにも自分の考えや状況を億さず話して、先生から有益な知識を引き出さなければなりません。

黙っている去るということは、指導を受ける機会を放棄するということに等しい。私はこんどこそ、先生がたにオープンハートで臨もうと思っていました。

けれどなんか、オープンにする方向性を間違えたんだ。ごめんね、先生。